美術館大学構想室企画展
西雅秋|彫刻風土
「西雅秋・彫刻と風土の邂逅」 宮本武典
「1970年代、高度成長の真最中で、日本は物質に溢れていた。それに乗じて〈彫刻〉を安易に作る事ができなかった私は、山懐の地に家族と移り住んだ。生きるために山野を拓く毎日の中で、〈彫刻〉が、私にとって本当に差し迫ってくるまで作らないことが、いちばん作ることに近いのだと思っていた…」
彫刻家・西雅秋(1946-)の作品と言葉は、常に「物質と時間」「人間と自然」との関係にまつわる特異なストイシズムに貫かれている。展覧会のたびに土中から掘り起こされる巨大な錆鉄の円環、銅に鋳込まれ海流に放たれた桂の倒木、20mの高さから落下し地表に沈み込む5トンの鉄塊、紛争に喘ぐアフリカ大陸に埋められたままの銅片…これらの作品群は、私たちの穏便な〈彫刻〉概念を根底から揺さぶってくる。西雅秋の提示する金属彫刻は、大気に曝され、土に埋められ、海水に浸されることで、自然界における物質の変容をその表面に甘受し、土地固有の風土や歴史との邂逅を造形化しようとする。
「時が過ぎれば年老いていく。自分の身体が、存在が無くなるんだなぁと思った時、いっそ作品も溶けて無くなっていくようなものを残したい、と思った。自分の生きている時間と、鉄に錆が喰いついて徐々に消失していく時間を並行させて」
埼玉県飯能市の山間にある西雅秋のアトリエの敷地内には、鉄、銅、アルミ、プラスチック、コンクリートなどを素材にした様々な彫刻作品が、繁茂する雑草に半ば身を沈めながら、静かに各々の劣化の時を過ごしている。アトリエのバルコニーから眺めるそれらは、西雅秋本人の生と死の有限性を照射する、ある種の計器として存在しているように見えた。西は穏やかに風化する鉄や木を好み、銅やアルミを、ヒトの有限な生を超えて無限定な時間に属するものとして扱う。これらの金属は、熱の使い手である彫刻家自身が鋳造し、〈彫刻〉をめぐるロジックの錬金術によって、独自なダイナミズムを有する芸術作品に鍛え上げられる。
「戦争中の金属供出では、銅板の屋根瓦から仏像、鐘楼なんかをるつぼの中に入れて、高熱で溶かして、その時代の鋳型、例えば戦争中であればそれを砲弾に鋳込んだ。人を殺した金属片が、戦争が終わればまた溶かされて、今度は観音像の鋳型に流し込まれる。金属をそういうふうにコントロールする鋳造という技法に、私は取り憑かれた」
液状化したカタチが、それぞれ固有の意味を失い、混ざりあっていくプロセスを作品化するため、西雅秋は白く脆い石膏を用いて、即興的かつカオスティックなインスタレーションも制作している。とりわけ『DAETH MATCH 1999|気構』に見られるアモルファスな光景は、西雅秋の出身地・広島の惨劇を否応なく見る者に想起させるだろう。〈ヒロシマ〉こそ、西雅秋の制作行為のはじめから影のようにまとわりつき、その思考に〈彫刻〉という立体感を与えた最初の熱と光であった。西の彫刻が、いつもはじめから破壊が去った残骸のような佇まいを見せているのは、彼の原風景が、いつもあの〈時の廃墟〉に還っていくからだ。
「幼い頃、被爆後の広島でバラックに暮らす親戚のところへ遊びにいった経験が、未だに強烈に心の中にある。祖母は自宅の庭の、汚染された大地に種を植えて、食べるための植物を育てようとしていた。その光景が、私が生きていく最後の場所だと思っている」
〈彫刻〉が置かれるのが、もし何らかの痛みを抱えている場所であるなら、彫刻家は(ヒロシマに種を埋めた祖母のように)土地の記憶を、その身に引き受けることから逃れることはできない。あのジャン・ジュネが、ジャコメッティーの彫刻について「美には傷以外の起源はない」とはっきり語っているように、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、パレスチナ、そして9.11以後の世界において、今日も露呈し続ける〈歴史の傷〉を受け継ぎ、埋めていこうとする思考にこそ、西雅秋が21世紀に正統に継承した彫刻家としてのヒューマニズムがある。
2006年の夏、西雅秋は山形に滞在して鋳造所や廃校を訪ね歩き、この地を象徴する様々なカタチ(果実、仏頭、金精様、コケシ、将棋の駒、土人形等)を収集した。本展『西雅秋|彫刻風土』で、これらは精巧な雌型によって大量に石膏に鋳抜かれ、「すべては〈彫刻〉であるかも知れない」という暗示を添えた、挑発的な彫刻作品として積み上げられるだろう。私たちは果たして、その『彫刻風土』の景色を真っすぐに凝視することができるだろうか?
(※文中の西氏の発言は2006年6月29日に東北芸術工科大学で開催された特別講義記録からの抜粋)
[東北芸術工科大学学芸員]
上:キャンパス内の工房で学生とともに「山形の風土」をテーマにした彫刻制作に取り組む西雅秋
下:展示風景|山形で現地制作した彫刻作品『Death Match(彫刻風土|山形)』/石膏、蚕籠、金網