旅先の駅ホームや列車内で旅情を誘うメロディに出会うことがある。
「?瀬戸は日暮れて 夕波小波 あなたの島へお嫁に行くの」。
高松城や丸亀城の仕事に行くとき、岡山駅の瀬戸大橋線ホーム、坂出駅の予讃線ホームに列車が入ってくると「瀬戸の花嫁」のメロディが聞こえてくる。瀬戸大橋が開通してからは、電車や車であっという間の距離になったので、旅愁にひたるまもないが、それでもこの曲は舟で島々を行き来した時代のことを思い起こさせてくれる。JRでは列車の到着に合わせて流れるこの音楽を「接近メロディ」と呼んでいる。
先日乗った大阪から鳥取方面に向かう智頭急行線経由特急スーパーはくと(大阪~鳥取間2時間30分)では、停車駅が近づくと車内で「?夢は今もめぐりて 忘れがたき ふるさと」のメロディが流れてくる。誰もが口ずさむ文部省唱歌「ふるさと」のサビの部分だ。作曲者の岡野貞一が鳥取市出身にちなむ。
大阪方面に向かう帰りしなの電車では、軽快な「大黒様」のメロディに変わる。「?大きな袋を肩にかけ だいこくさまが 来かかると…」。因幡の白兎の故事にちなんだ童謡で、大黒様は商売繁盛の神でもある。商人のまち大阪にもあった曲だ。JRでは車内チャイムと呼んでいる。短いメロディであるが土地にあったよくできた選曲だと思う。
ただ、「ふるさと」が描く風景や、歌詞の最後にある、「志をはたして いつの日にか (故郷に)帰らん」というメッセージはだんだん時代とそぐわなくなってきた。「?兎追ひし…」を小学生がおかあさんにウサギって美味しいの?と聞いたという笑い話もある。
金沢城や七尾城の仕事に行くときには大宮で乗り換えて北陸新幹線を利用する。北陸新幹線の車内チャイムは谷村新司の「北陸ロマン」だ。こちらは2015年の北陸新幹線金沢開業のキャンペーンソングとして書き下ろされた新曲を採用している。雅な琴の音が流れる金沢駅の発車メロディとともに一度聴いたら頭から離れない。
金沢から能登半島、七尾?和倉温泉方面に向かうのは七尾線。接近メロディは「?君と好きな人が 百年続きますように」と歌う「ハナミズキ」。一青窈の名曲で、ウェディングソングの定番である。
「一青」は「ひとと」と読む。彼女がデビューしたとき、石川県の人は難なくその苗字が読めた。七尾線の沿線、中能登町(旧?鳥屋町)に「一青」という集落があるからだ。ここには花見月という集落もある。平安時代の窯跡があって同僚がかつて発掘していた。一青は母親の姓で、実際に鳥屋町出身だという。ひとつの接近メロディにもこんなストーリーがあると親しみがわいてくる。
2017年3月3日、ひな祭りの日、七尾城の仕事に行くのに、前泊した長野駅の券売機で切符を買ったら、たまたま「花嫁のれん」という列車だった。金沢駅から乗ったら車内は金ぴか、蒔絵のような内装でびっくり。1号車の半個室のような席だった。後で調べたら週末限定運行でなかなか予約は取れないらしい。車内アテンダントに聞いたら、当日たまたまキャンセルが出たのではないかと。
花嫁のれんとは、娘の幸せを願い嫁ぎ先に持参する嫁入り道具の一つで、婚礼当日に花嫁は婚家に提げられたこののれんをくぐって嫁入りする。旧加賀藩領の伝統文化である。花嫁のれんにちなんで、乗客の幸せを願う思いが込められているという。
向かいには東京から来たという一人旅の初老の女性がいた。母の実家が山形県新庄市で、子供の頃に蒸気機関車で里帰りしたことがあるという。「鉄子」で全国の記念列車の旅を楽しんでいるそうだ。北陸新幹線や北海道新幹線も開業日に乗ったというから筋金入りのファンである。七尾に着くまでの1時間あまり楽しく話し込んだ。こんな出会いも列車の旅の楽しみの一つだ。
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この9月はよく山を歩いた。
高い山に登るいわゆる「登山」ではなく、だらだら続く坂道や急な石段の上り下りだった。
初旬には学生たちと車2台に分乗して、兵庫、香川、愛媛の遺跡をみてまわった。東六甲の大坂城石垣の石切り場を皮切りに、高松城、丸亀城、松山城、大洲城、宇和島城、別子銅山東平、金毘羅山、姫路城などを歩き、残暑厳しい中で大汗をかいた。
そのあとは小国町の越後?米沢街道黒沢峠敷石道の測量調査。明治11年、イギリス人の女性旅行家イザベラ?バードが通った道だ。バードは宿場で馬が手に入らず、夕やみ迫る中、牛に乗ってここを越えていった。今回は3日間で峠の手前にある茶屋跡の地形測量を実施した。現場までは山道を登ること40分。山中にはトイレがないのでお昼に降りると2往復することになる。
一番きつかったのが9月下旬の鳥取城跡だった。鳥取駅に降り立つと駅前通りの先に標高263m、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」とうたわれた久松山が目に飛び込んでくる。
頂上に石垣が見えるのですぐにお城とわかる。ここは戦国時代に毛利方の吉川経家が陣取った鳥取城跡(山上ノ丸)である。天正9年(1581)、信長の中国攻めに際し、羽柴秀吉は大軍で城を取り囲み、兵糧攻めにして攻略した。世にいう「鳥取城の渇え殺し」である。
関ケ原後は池田氏が入り、山麓がお城の中心となった。元和3年(1617)に池田光政が姫路城から移り、本格的に曲輪?石垣を整備して近世鳥取城が完成した。近年の環境整備によって幾重にも重なる石垣塁線が見えるようになり、大手の擬宝珠橋や中ノ御門も復元されている。お城の一角には明治末の近代建築「仁風閣(重要文化財)」があり、連日イベントや結婚式の前撮りで人気を集めている。鳥取砂丘と併せて人気の観光スポットになっている。
薄暗くなるまで石垣を見ていたら毎日散歩しているというおじいさんが、「クマが出るからあんまり奥に行くな。この間7~8合目あたりでクマが出て、警察官2人が“さす股”持って山から降りられなくなった人を助けに行ったぞ」と言う。警察官も仕事とはいえ、ご苦労なことだ。イノシシはあいかわらず整備した芝を掘りまくり、石垣壊して夜は大運動会をしている。クマとイノシシ、シカといった野生動物はどこのお城でも今問題になっている。
翌朝は山麓の石垣をみてから、いよいよ山頂のお城を攻めることにした。
しばらくすると道の傍らに「1合目」「2合目」と頂上まで等分に割り振られた表示板がみえてきた。「5合目」までは一気に行ったが、衰えた脚にはその先が遠かった。薄暗い照葉樹林の森の小道はジグザグになって上っていく。足元に注意しながら一歩一歩、心臓が飛び出しそうな息遣いをしながら何とか登り切った。すぐ脇には岩盤むき出しの沢があって、滑落しそうな場所も随所にある。
ともあれ必死になって登った久松山。本丸からの眺望はすばらしかった。
鳥取城下の総構え(城下町や防衛ライン)が一望でき、天守台からは日本海も一望できる。ここに城を作った意味がよくわかった。山城を闊歩した戦国時代の人たちはさぞタフだっただろう。それでもこんな城をまともに攻めたのでは兵は疲労困憊する。秀吉が兵糧攻めを選択したのもよく納得できた。
この日は天気が良く、鈴をちりんちりん鳴らし、携帯ラジオを持ったハイカーたちがたくさん登っていた。どこの地域にも史跡を健康づくりの場としている人たちがいる。お城は人気スポットで平地の城はジョギングの周回コースになっているし、山城は登城を日課とし、健脚を鍛える人たちの聖域である。かつては軽快にのぼっていくそんな人たちに後ろめたさを感じながら、一方で負けまいとやせ我慢して頑張ったが、近頃は無理をしないことにしている。お先にどうぞの精神で余裕を持つほうが安全だと考えを改めた(負け惜しみぎみ)。
前に安心ボケの話を書いたが、都市の城址公園はまさにそんな感じがする。元来、お城は統治、権力の象徴で、そこに攻め込む兵にバリアを作るのが目的だった。しかし、現代は見学者の利便性、安全確保のためにバリアフリーが要求される。よく整備された公園では急な斜面に車イスも押せる長いスロープを付けたり、高い蹴上げの石段には補助階段を設けて歩きやすくしている。石ころだらけの登城路は舗装してサンダルでも歩ける。お城は歴史ロマンにあふれ、誰もが安全、安心に憩える空間になってきた。
毎日のようにお城を特集したテレビ番組があり、最近は石垣も静かなブームになってきた。400年間、微動だにしないでデンとそこにあるようにみえる。しかし、石垣は生きていて、気温や湿度によって膨張したり縮んだりしている。まるで呼吸しているがごとく。車の微振動でも巨石の隙間を埋めている「間詰石」は少しずつ緩んでいく。そして、人知れず落下している。私たちはそんなことつゆも思わず石垣の下を歩いているが、実はいつ頭の上に石が降ってきても不思議ではない。
大地震や集中豪雨で毎年のように石垣や斜面崩壊のニュースに接する。これは日本列島に暮らす我々が負う宿命である。だから先人たちは世界に誇る斜面安定工法を生み出してきたし、江戸時代の人たちはそんなリスクを認識し、定期的に石垣のメンテナンスを行っていた。だが、近代以降、長くほったらかしにされ、老化している石垣が増えてきた。
人知では計り知れない、コントロールできない自然なのに、都市的生活からは自然へのリアリティがどんどん欠如していっている。「危険」をすべて視界から消し去るような城跡の整備は安心ボケを助長するような気がする。安全な環境は作るが、安心はほどほどに。随所にみえる山城の荒々しさ、兵どもが夢のあと、古城の風情を残すところが鳥取城跡の魅力かもしれない(その日の午後に会った担当曰く、整備に手が回らないだけだというが)。
眺望映える久松山の山頂で、脚に気力が満ちてくるのを待ちながらそんなことを考えていた。(続く)
(文?写真:北野博司)
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北野博司(きたの?ひろし)
富山大学人文学部卒業。文学士。
歴史遺産学科教授。
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専門は日本考古学と文化財マネジメント。実験考古学や民族考古学という手法を用いて窯業史や食文化史の研究をしている。
城郭史では遺跡、文献史料、民俗技術を駆使して石垣の構築技術の研究を行っている。文化財マネジメントは地域の文化遺産等の調査研究、保存?活用のための計画策定、その実践である。高畠町では高畠石の文化、米沢市では上杉家家臣団墓所、上山市では宿場町や城下町の調査をそれぞれ、地元自治体や住民らと共に実施してきた。
自然と人間との良好な関係とは、という問題に関心を寄せる。
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