現在、蔵王温泉には3つの共同浴場がある。「上湯」、「下湯」、「川原湯」の3カ所で、上湯、下湯は高湯通り沿い、川原湯は湯の香通りから入ったところに位置している。いずれも無人で、通年で6時から22時までオープンしており、入浴料金は大人200円、子ども100円で入浴できるのだからすごい(ただし、洗い場はないため注意)。
蔵王温泉へはじめて来た人には、ぜひ、すべて入ってそれぞれの違いを楽しんでもらいたいが、これまで私は、「上湯」「下湯」と続いて、なぜ、「川原湯」なのだろう、と不思議に思っていた。場所としても奥まったところにあって、なんというか、上湯、下湯と俺は違うぞ、という雰囲気がある。お湯がとてもよくて、好きな共同浴場なのだが。
ここで、少し話題を戻す。前回の記事「土地の名前、土地のイメージ」で、《山形縣下真景圖會》(1880年)の中央に、温泉場らしきものが描かれていることを書いた。
まさかこんな街中に、なんの囲いもなく温泉浴場があるとは、現代の常識ではにわかに信じられない。そのため、濁して書いてしまったが、ここが間違いなく温泉であるということが、別の資料から明らかになった。
この《羽州村山郡高湯温泉之図》(1844年)は、画面左に「天保十五辰年」と書いてあって、西暦では1844年のこと。江戸時代の木版画である。「画」は「東都 甲教舎良山」、「板」は「高湯 若松屋長右衛門」とあり、高湯の若松屋長右衛門が発行人となって、江戸(東都)の甲教舎良山へ依頼して描かせたものということだろう。古書の一括検索サイトで「高湯温泉」で検索していたところ、発行年不記載のこの資料が出てきたのだが、まさか江戸時代のものだとは思わず注文した。
そして、《羽州村山郡高湯温泉之図》をじっくり見ていると、中央に、「大湯」と書かれている場所がある。
湯気で煙っているような表現もされていて、これはもう、まごうことなく温泉浴場である。やっぱり温泉だった!という発見の喜び。さらに、視線を画面の右側に向け、奥まったところを見ると、「川原ゆ」が見つけられる。そう、「川原湯」は、少なくとも天保時代からその名前が付けられていたのだ。ならば、川原湯は、現在の蔵王温泉の共同浴場へと繋がるその歴史の一端を担っていると言えるのかもしれない。
ここで、前回紹介した朝一規内《高湯温泉場全圖》(1901年)を再び見てみると、なんと、「大湯」があるではないか! 気づいていなかった。ただ、《山形縣下真景圖會》(1880年)から20年余りを経て、しっかり「囲い」に覆われている。近代化に端を発する法的な規則の整備によって、江戸時代以来の公衆浴場は明治時代に大きく変容していくわけだが(例えば、江戸時代の公衆浴場は男女混浴であった)、この資料から窺い知ることができるのは、東京といういわば中央から距離のある東北の高湯温泉では、ようやく明治半ばにそれらが整っていった、ということだろうか。
そして、朝一規内《高湯温泉場全圖》(1901年)も画面の右へと視線を移していくと、「川原湯」がある。隣には「川原屋」があって、この時期には、旅館も併設していたということだろうか? あるいは、経営は違っていても、「川原」という名称が同様に用いられるほど、「川原湯」は一般的に知られていたということかもしれない。
実は、現在も共同浴場川原湯の隣には、「かわらや」という日帰り温泉がある。HPでは温泉の泉質などが詳しく紹介されているが、施設の由来までは書かれておらず、わからなかった。ともあれ、少なくとも100年以上馴染みのある名前であり、場所であるのかもしれない(今回の記事は、どうしても、「かもしれない」が多い)。
伊東五郎編『蔵王五十年の歩みとスキーの発達』(山形市蔵王クラブ、1967年)には、「蔵王温泉史年表(明治以後)」が編まれていて、大正12(1922)年の事項に、「川原川改修(以前堀久旅館前を通る)」と記載されており、川原湯との関係が推察される。近くを流れる川の名を川原川といったのだろうか。現在、蔵王温泉にその名前の川を見つけることはできない。
また、昭和16(1941)年の事項に、「共同浴場下湯建設」とあって、その後、昭和37(1962)年までの事項が書かれているこの年表に、「共同浴場上湯建設」「共同浴場川原湯建設」の記載は見られないことから、共同浴場下湯が、最も古い共同浴場であるということだろうか。このあたりのことを深く調べるには、私には資料が足りない。
ともあれ、「お湯の記憶」というものがあるのではないか、と言ってみたくなる。そしてそれは、この場所——すなわち、かつては高湯温泉と言い、現在は蔵王温泉と言うこの場所で眠っているのだと。
蔵王温泉は開湯西暦110年…と言われると、時間の果てしなさに気が遠くなるが、1844(天保15)年くらいであれば、たかだか、180年前だ。「たかだか、180年前だ」と言ってみることで、その間の180年に思いを馳せ、これからの未来の180年を想像したいと思う。
今回山形ビエンナーレ2024に参加いただくシンガーソングライターの前野健太さんには、「100年後」(作詞?作曲:前野健太)という名曲があって、「100年後きみと待ち合わせ」というフレーズで始まる。どこで? 今回は、山形県の蔵王温泉で。熱いお湯に浸かりながら。そう、歌ってみてもいいじゃないか。
(文?写真:小金沢智)
関連ページ:
山形ビエンナーレ2024
BACK NUMBER:
東北藝術道のはじまり|連載?小金沢智の、東北藝術道 #01
東山魁夷の《道》を訪ねて|連載?小金沢智の、東北藝術道 #02
歌碑に導かれて[山形ビエンナーレ2024 私的随想録①]|連載?小金沢智の、東北藝術道 #03
季節は待っている[山形ビエンナーレ2024 私的随想録②]|連載?小金沢智の、東北藝術道 #04
「いのちをうたう」のはじまりのはじまり[山形ビエンナーレ2024私的随想録③]|連載?小金沢智の、東北藝術道 #05
川、雪、土、木、光、氷、石、山[山形ビエンナーレ2024私的随想録④]|連載?小金沢智の、東北藝術道 #06
土地の名前、土地のイメージ[山形ビエンナーレ2024私的随想録⑤]|連載?小金沢智の、東北藝術道 #07
小金沢 智(こがねざわ?さとし)
東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース専任講師。
キュレーター。1982年、群馬県生まれ。2008年、明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程修了。専門は日本近現代美術史、キュレーション。世田谷美術館(2010-2015)、太田市美術館?図書館(2015-2020)の学芸員を経て現職。
「現在」の表現をベースに据えながら、ジャンルや歴史を横断するキュレーションによって、表現の生まれる土地や時代を展覧会という場を通して視覚化することを試みている。
RECOMMEND
-
2020.04.30|コラム
丸八やたら漬 連載|建築史家?志村直愛教授の、山形行ったり来たり #01
#山形行ったり来たり#建築#教職員 -
2021.11.01|コラム
北の旅、南の旅|駆けずり回る大学教員の旅日記 #10/北野博司
#教職員#歴史遺産#駆けずり回る大学教員の旅日記 -
2020.08.07|コラム
毎日の丁寧な暮らしを積み上げた先にある「今」/卒業生 伊藤玲子(bicco tacco主宰)
#TUAD OB/G Baton#卒業生